2009年12月31日木曜日

胃袋を満たす朝市

 思い立って車を走らせ、仙台にいます。新春明けて1月から取り組もうと思っている生鮮野菜の仙台産直作戦(マルシェ・ジャポンに参加を予定)ですが、インターネットで周辺の状況を調べていたら、駅西口に仙台朝市と言う“市民の胃袋を満たしている市場”がありました。これは良いモデルになると思い、いてもたってもいられなくなって飛んで来たという訳…です。産直作戦会場は東口、しかも常設ではないので比べることはできません。ただ客層や嗜好のリサーチ機能は十分だと思います。

 ところで朝市は、まあ凄い。人、人、人の波に前に歩くことができません。やっぱり人間の最大の欲望は食欲でしょう。

2009年12月30日水曜日

医師確保のヒント

 昨晩、秋田市内で開催された工藤胃腸内科クリニックの“忘年の会”に参加しました。キャッスルホテル内にクリニックがオープンして2年。全国から患者が訪れるようになり、工藤進英医師が「秋田を医療立県にしたい」の思いは、着実に根を張っています。参加した皆さんは、クリニックを開設した当時の関係者をはじめ、工藤医師の同級生や地元のお友達、マスコミ関係者、市町村長や県議など実に多彩でした。
 
 にぎやかな中にも、そこここで医師不足が話題になり、多くのヒントをいただくことができました。

2009年12月28日月曜日

約束できること

 今日は市役所の仕事納めでしたが、そんなことはお構いなしの打ち合わせ会。忘年会の職員には申し訳ないことをしました。

 さて市長職を拝命して、あっという間の2ヶ月。9月11日朝、冨樫議長に辞表を提出。本会議で承認をいただき議場を出てきましたが、何だか10年も前のような気がします。直後の市長選。10月25日の投開票で当選をさせていただいて30日の初登庁。それから1ヶ月後の臨時議会で石山副市長の選任。今月3日に12月議会が始まって、いろんな意見をいただいて18日終了。

 行財政改革、組織再編、22年度予算編成作業、医師確保活動、所得向上対策…。市長の机(写真)から何が生まれるのか、また生まれないのか、来年はどんな年になるのか。最大の努力だけは約束します。

2009年12月27日日曜日

情報の共有化


 昨日も今日も会合。働き口について多くのご意見をいただきました。除雪作業がないと冬を越せない人、一方、施設園芸者からは雪が多いとビニールハウスが潰れてしまうとの心配も…。あちらとこちらは両立しません。話題は国の予算案に及び、国営事業や交付税の話題など、本当によくご存じです。政権が交代したからか、そこに至るまでの経緯の効果か、はたまたマスコミの力か、国政と国民の距離感は確かに縮まりました。これは素晴らしいことです。情報の共有化は、民意の反映とまちづくりに絶対不可欠です。
 現状の市政で何ができるかを考えています。ブロードバンド通信、有線テレビやFMラジオ…。まずは広報せんぼくの月2回発行かな。

2009年12月26日土曜日

ガンバッタ人へのご褒美

 実践空手道の武心会と長くお付き合いをいただいています。それで今日は忘年会・全国大会入賞祝賀会でした。成績を残した子供たちは、日々の鍛錬に汗を流したご褒美です。頑張れば結果がでることを体験できるのもスポーツの良いところです。
 武心会の忘年会では、必ず出席率の表彰が行われます。全練習日、どれだけ休まずに参加してきたか、これも素晴らしい励ましです。今年は田川くんが、出席率97パーセントで一番でした(写真)。ガンバッタね!

クリスマスの薫り

 24日、秋田市内で医療関係者と意見交換がありました。少し早く到着したので、近くの遊学館をのぞいてみることに…。そうしたら運良く「クリスマス・コンサート」に出くわして。出演していたのは“さくらの会”だったと思います。小さなコンサートでしたが、静かで厳粛で、バタバタ感をリセットすることができました。今年、クリスマスを感じることができた唯一の空間かな。

 意見交換会では、地域医療の現状や、医師確保についてアドバイスをいただいて…。そっかぁ、これがクリスマスプレゼントかあ。

2009年12月19日土曜日

雪だぁ!

 ついに、みたいな感じです。昨晩から今朝にかけて、また午後からも雪が降りました。いよいよ冬を実感しています。クリスマスも近いんで、少しだけ降って欲しいような気もしますが、加減はできませんから…。

 さっき、愛用していたデジタルカメラが壊れました。これまでポケットに入れて歩いていましたが、寿命でしょうか、ウンともスンとも反応がありません(バッテリー切れではなさそうです)。この際、カメラ付き携帯に買い換えようかな。

地域審議会からの提言

 先週末、角館地域審議会(柏谷圭一郎会長)から、「農山村活性化」について報告書を提出いただきました。地域審議会は、合併を構成した3町村にそれぞれあって、地域の諸課題を市政に反映させるため、地域内の意見を集約しています。報告書の内容を来年度予算に反映させたいと、この時期の提出となったものです。
 角館地域審議会の報告書には、観光と他産業との連携が大切だとする視点で、農山村の活性化をテーマに多くの提言がありました。

至急取り組むべき事項として、
1.集落の健全化
2.農産物の販路拡大及び観光との連携
 をあげています。1の集落の健全化では、農山村活性課の新設などで、耕作放棄地の解消、集落の実態調査、住民懇談会の恒常開催、集落会館などの加工所等の活用を進めること。また2の農産物の販路拡大及び観光との連携では、空き家の直売所化、メディア対策、修学旅行のさらなる受け入れ等を図ることなど、多彩なアイディアが特徴的です。
 さっそく、着手できるものを具体化します。

2009年12月13日日曜日

音楽と踊りの架け橋


 夕方からたざわこ芸術村・わらび劇場にて「日本ベトナム伝統芸能の夕べ」に参加。おやま囃子、わらび座の皆さん、そしてベトナム国立音楽舞踊団の合同公演には大きな感動をいただきました。音楽や舞踊は世界の共通語です。それにしても綺麗な人ばかりでした。と、思っていたら、講演終了後のレセプションで隣にテーブルになって…。ステージ以上に明るい皆さんでした。何だかこっちも元気をもらったような気がします。 
 お話を聞いたら、わらび座では、すでに40年ぐらい前からベトナムとの交流事業を持っていたんだそうです。地道な活動は、必ず実を結ぶんですね。

地域の絆

 またまたブログアップが滞っていまして…。まあ、だんだん「一週間を振り返ってブログ」になりつつあるなあ。さてこの写真、今日お昼ぐらいからお邪魔した田沢地区の「歳末チャリティ演芸会」での一コマ。演目が始まる前、スタッフ~の最終打ち合わせの様子です(中央のマスク姿の方が実行委員会の高橋会長)。この演芸会は昭和30年代からの歴史を重ねる会で、地域の名物行事。若い人もお年寄りも一緒に楽しめる内容になっています。地域の絆を感じた行事でした。もちろん出し物のレベルもハイグレードです!

※NPOたざわ村の文化祭も同時開催だったし、体育館の中にはおそばコーナーもあったりで、かなり楽しめました。何より実行委員会の詰め所、バックヤードは食べ物の宝庫。すっかりご馳走になってしまって、どうも済みません。

2009年12月5日土曜日

一般質問の答弁準備

 時間をつくるのも能力なんですが、どうも自分にはその力が欠落しているようで…。すでに師走になってしまいました。市議会の12月定例会は3日から始まっています。昨日のお昼までに、議員の皆さんから一般質問の内容を通告いただきました。初の定例議会ということもあり、公約(マニフェスト)に関する質問が多くなっています。この土・日は答弁の準備です。今からドキドキです。

〈9日質問議員〉  佐藤直樹 議員(仁政クラブ)
            小林幸悦 議員(翠巒会)
            門脇健郎 議員(政眞会)
            田口勝次 議員(創成会)
            平岡 均 議員(日本共産党)
〈10日質問議員〉 藤原万正 議員(公明党)
            安藤 武 議員(仁政クラブ)
            大石温基 議員(翠巒会)
            佐々木章 議員(創成会)

2009年11月30日月曜日

この人が副市長です

 今日は仙北市議会臨時会。初めての議会で、ドッキドキの連続でした。やっぱり質問する側と答弁する側は違います。最初に所信の表明をして、次に予算や人事案件を提案して、それに対する質疑をいただいて…。シドロモドロの答弁でご迷惑をおかけしましたが、何とか提案した議案をお認めいただくことができました。

 人事案件では副市長と教育委員の同意をお願いして、どちらも賛成多数で可決、良かったぁ。写真は副市長に着任する石山修さん。秋田市出身で63歳。教育委員には前任だった佐久間建一さんです。あともう一人教育委員に欠員がありますが、たぶん選任時期は年度末ぐらいになりそうです。

2009年11月29日日曜日

芸達者と人生上手


 何とご無沙汰したことでしょうか。ずいぶんブログの更新をしていないことに気がついて、開けてみると約1ヶ月の空白が…。決して遊んでいたわけではありません。余りに目まぐるしい日々で、自分の時間がもてなかっただけです。そこでモバイルの環境を一新しました。今ハヤリのウルトラモバイルコンピュータなる代物です。これだと移動中の書き込みも可能で、かなり機動力は向上するはずです。と言うわけで今日の報告。朝から角館庁舎で日曜会議。その後、第22回角館芸能ボランティア・チャリティーショー(写真)。お昼過ぎからまた会議で、その状況が今も続いています。
 さてチャリティーショー、すっごい熱気でした。収益の一部は仙北市社会福祉協議会に寄付をすることが慣例の会です。出演者はもちろん芸達者な皆さん。でも一番芸達者なのは、実は来場の皆さんかなと。だって全身で笑ったり、大きな声で声援したり、拍手をしてセンベイ食べて…。人生を楽しむ術を知っています。やっぱり、こうでなくちゃ。
 同時刻に開催している「たざわこ音楽祭」、「鈴木陽悦議員の国政報告会」は、今も続く公務で欠席となってしまいました。ごめんなさい。 

2009年11月1日日曜日

人生は織り物?編み物?

 市長就任(30日から)後、ブログをリメイクして再開しました。これからもできるだけ毎日更新しますので、ぜひのぞいてくださいね。と言うことで本日の日記。

 1日10時、美郷町合併5周年記念式典に出席。県内で一番最初に市町村合併を成功させた美郷町。松田町長ご自身の人望、明確な行政指針が感じられて、とっても爽やかな式典でした。続いて午後から角館図書館後援会(高橋雄七会長)主催の文化講演会に出席。作家として活躍する佐伯一麦さんの「日本の内と外から~私の文学雑感」と題した講話を聞いて感激。

 「人生は綴れ織りと言いますが、私は人生は織り物でもあるし、編み物でもあると思っています。織り物は縦糸をかけて織り始めて、後戻りできる作業ではありません。でも編み物だったら、例えばセーターを編んでいても、失敗したらほどいて、また編み出せば良いわけで。そんな人生も有りだと思っています」。う~ん、その通り!!

想いはさらに強まって


 31日の朝、仙北市内の文化祭を激励。西木地区、田沢湖地区でごあいさつ。田沢湖地区ではお茶を点てていただいて一服。ウマかったです。その後、9時51分のこまちで上京。「第24回東京かくのだて会」に出席。そしたら参加の方から「横浜で市の商工会が参加しているお祭りがあるから、見てきた方が良い」とのアドバイスをいただいて…。
 湘南新宿ラインに飛び乗り、みなとみらいの赤レンガ館へ移動。会場は人・人・人の群れ。すごい。全国の商工会関係者が出店し、味自慢・観光自慢の一大イベントです。仙北市では“ないりっくん”が秋田内陸縦貫鉄道のアピールをしていました。最終のこまちにやっと乗って帰路につく間、「あの人たちに、仙北市を知ってもらいたいな。全国に誇れる素材が天こ盛りだからなぁ」と、想いはさらに強まって、じっと座っていることができませんでした。

初登庁

 10月30日。田沢湖・角館・西木庁舎へ初登庁。各庁舎で職員の皆さんにごあいさつ。「今日から新しいまちづくりがスタートします。選挙戦は終わりました。ノーサイドです。皆さんからご協力をいただき、市民の負託に応えるために、一丸となって作業に取り組んでください。必ず光り輝くまちになります。マニフェストを実現するための推進チームを早急に立ち上げます。我こそはと思う人はチームに参画してください」とお話しをさせていただきました。

 病院や診療所、福祉施設をまわり、自殺予防シンポジウムでごあいさつ。庁舎に帰ってからも関係部長と打ち合わせ。忙しない初日でしたが、市民も職員も、これからは毎日がバタバタですよ。一緒に頑張りましょう。

2009年8月27日木曜日

パリの夜…ヨーロッパ⑦

 日本料理のヤマニ。ここに勤める板前さんの吉野さんと宮路さんは友人で、ちょくちょく連れ立って遊びに出かける関係なんだとか。吉野さんは国鉄マンを退職し、料理界に飛込んだ変わり者で好人物。ちなみに宮路さんは、ホテル・ニッコー・ド・パリの中のブランド化粧品店で働いていた。

 さて、久しぶりに日本酒とお刺身でいっぱい。これからのことを宮路さんと相談。「取り合えずアパートを探しましょうか。何日ぐらいパリには居るの?」。「いや、一度パリを出てベルギーやドイツも回りたいと思っていて」。「だったら、そっちから帰ってきた夜にでも、またここで落ち合いましょう。それまで適当に当たっておくわ」。「ありがとう」…。 店を閉めた深夜、吉野さんの愛車パブリカで、夜のパリをドライブ。「ちょっとドキドキする店に寄るよ」と吉野さん。人気のない小路をもの凄いスピードで走り抜ける。古い倉庫が立ち並ぶ、いかにも危険な場所。「ここが地下クラブ・デジャ・ムニエルさ」。

※写真はイメージ。こんなに健康的なお店ではなかった。カメラ持ち込み禁止ということで、あとはご想像にオ・マ・カ・セ。

2009年8月23日日曜日

元気100倍の電話…ヨーロッパ⑥

 爆弾テロの影に、生まれて始めて命の危険を感じる。しかも遠い異国の地で。テロの犯人グループはアラブ系過激派だとテレビで言っている。人が集まる駅や空港、デパートなどで警戒態勢が強まる。ミッテラン政権の一番の失策は、「雇用パス」の乱発らしい。外国から何万という異人種が入国し、宗教やら何やらでもめ事が絶えないんだそうだ。逆に好評なパスもある。子どもを3人以上産んだ夫婦には「黄門パス」が発行されている。買い物だったり、バスやメトロ(地下鉄)に列外から割り込んで入ってもいいという通行手形。町中で割り込み合戦が見られたのは、マナーの問題じゃなかったんだ…。

 ホテルにこもり、テロが落ち着くまで出歩かないようにしようと決めた矢先、宮路順子さんから電話が入る。なぜか懐かしい。まだ会ってもいない人と、久々の日本語の会話で元気100倍。宮路さんがいう。「ホテルから出てきませんか。近くの日本料理ヤマニでお遭いましょう」。

2009年8月19日水曜日

パリ警視庁爆破…ヨーロッパ⑤

 9月14日、フランス、パリ市第5区のカルチェ・ラタンに安いホテルを見つけ、ここをベースに2日間を過ごす。5区・6区はソルボンヌ大学などの学生街で、比較的暮らしやすいといわれるエリア。ノートルダム寺院やルーブル美術館のあるシテ島(セーヌ川の中洲にある島)にも近い。シベリア鉄道で預かった宮路順子さんへの手紙を届けるため、アドレスを頼りに3時間も訪ね歩く。分らない。ところが諦めてホテルに戻る途中、偶然に目的のアパートを発見。残念なことに本人は不在だったので、自分が滞在するホテルの電話番号をメモし、たまたま通りかかった住人に託して帰る。

 実はその間に大変な事件が起こっていた。さっき立ち寄ってきたノートルダム寺院の隣、パリ警視庁本部で爆弾テロがあったとのこと。わずか20分程度の差で爆風から逃れることができたことになる。ホテルに帰り、ニュースを見よう(見てもアナウンサーの言葉は分らないけど…)。

※写真は凱旋門の下にあるナポレオン記念碑。凱旋門はナポレオンの命令で建てられたが、彼はここを遺体で通った。

2009年8月15日土曜日

ガウディの街…ヨーロッパ④

 9月12日。スペインはバルセロナ。目的の地はサグラダ・ファミリア(聖家族教会)。地下鉄を乗り継ぎ、サグラダ・ファミリア駅で下車。どっちに向かえばいいんだろう。ウロウロしていると駅の後に塔が見えた。足早に教会を目指す。少しづつ視界に全容が入って、それと同時に体の震えも大きくなって…。言葉にできない感動とはこんなことか。人間には凡人と天才がいることを改めて感じた。

 アントニオ・ガウディ。1852年に生まれた偉大な建築家。その建造物は生物的で、曲線と彫刻を多用したデザインは多くの建築家や芸術家に影響を与えた。聖家族教会はガウディの代表的な建造物だが、100年前から造り続け、完成までにはあと200年かかるらしい。日本人が石工をしていると聞いてきたが、探しても見つからない。話しがしたかった。

 スペインではグラナダやセビリアにも足を伸ばしたいと思っていた。でも、それができない。実はシベリア鉄道で一緒だった麻野さんから、パリにいる友人、宮路順子さんへの手紙を預かっていた。この時期、パリ市民の多くはバケーションに出かける。麻野さんは貧乏一人旅の自分のために、バケーションで空室になるアパート探し(空室にしておくのがもったいなくて、必要がある旅行者などに低額で又貸しするらしい)を、宮路さんにお願いした手紙だ。これが叶えば、パリでの滞在費を大幅に切りつめることができる。しかし宮路さんも近日中にスイスに行くことになっているとか。急がないと手紙を渡せなくなってしまう。

ローマの休日…ヨーロッパ③

 9月9日。ローマ、スペイン広場(写真)にて。ドイツ語、英語、スペイン語などなど、いろんな国の言葉が聞こえて楽しい。バックパッカーのボヘミアンで大賑わい。ローマの休日…。オードリー・ヘプバーンが演じたアン王女と、グレゴリー・ペックが演じた新聞記者がデートをした場所。近所にあるはずの真実の口が見つからない。それにしても日本人が多い。特にトレビの泉は日本人だらけ。

 さて、そのトレビの泉。日本のガイドブックには正しいコインの投げ方というのが書いてある。1枚投げると「またイタリアに来られますように」、2枚では「好きな人と一緒になれますように」、3枚では「後腐れなく別れられますように」…。しかしこれは間違い(イタリア人から聞いた)なんだそうだ。1枚は同じ、2枚は「素敵な人が現れますように」、3枚が「一緒の人と結婚できますように」が常識だとか。だからイタリア人はみんないっている。「日本人はみんな2枚投げていく。カップルでここまでやってきて。なんて強欲なんだろう」。

 この後、トーマス・クックの時刻表を読み違えナポリへ。真っ直ぐ南フランスを目指すはずが真逆に進行。列車の中で気がついたが「ナポリを見てから死ねの諺もあるぞ」と車掌さんにいわれ、まあ、いっかと納得。地中海沿岸を走り、フランスはマルセイユで、バケツいっぱいの生ガキを食べてベットに入る。

2009年8月14日金曜日

オリーブ炒めご飯…ヨーロッパ②


オーストリアを出てイタリアに入る。ミラノからベニスに移動し、ここで安宿を探すことにした。何軒か歩くが安くない。相部屋になっても良いという条件で交渉成立。その後、いつも通り近所の散策に出かける。定番のサンマルコ広場、運河、そしてバーカロ(ワインバー)などなど。それにしても路地ばかり。
神父様らしき人に帰り道を尋ねる。「なに?お若いの、どこから来なすった?なんと日本?長崎か広島か?」と、逆に質問攻めに合う。歴史感(日独伊3国同盟じゃ古過ぎか)からの質問か、それとも宗教者としての戦争感からか…。「私は明日からバチカーノにいるから、必ず尋ねてくるのじゃぞ」とご案内までいただく。きっと偉い人なんだろう。
話し疲れ、歩き疲れ、ホテル近くのスーパーで夕食を買い込むことに。お皿に盛りつけされたご飯を見つけ、「やった、久しぶりの米だ」と大喜び。白ワインも買い込んでホテルへ。自分以外にこの部屋に泊まる客人はいないようで、ゆっくりと晩酌。シメシメ…。ところがこのご飯がマズイ。オリーブ油で炒めたご飯だ。ワインでやっと流し込む。ホテルの窓から運河を眺め、「あ~あ、海苔の佃煮のせてホッカホカの白いご飯が喰いたい」と独り言。
ベニスは沈みながら、そして朽ちながら生きる街、だからこそ美しい…。

ウィーンで結婚式…ヨーロッパ①

 ババちゃんのロシア墓参で日本を出た後、ついでに世界の今を知りたいと思い、ヨーロッパを巡ることに。できるだけ多くの国を訪ね、その国民と話しをしよう。

 1986年9月6日、ウィーン国際空港。モスクワ時間から2時間時計を戻す。バスターミナルに出て、ウエストバーンホフ(ウィーン西駅)行きのバスに乗車。世界中の観光客がいる。さすがは世界の観光立国!。市内はリンク(環状道路)で、いくら迷っても歩き続けると元の場所に戻って来られる。シュテファン大寺院やオペラ座、路上パフォーマンスは見ていて飽きることがない。

 小さな(他のと比べると)教会からチェンバロの音が漏れてくる。何だろう。石段を登ると中では結婚式が…。最後列にいたスーツ姿の男性が手招きして「入れ、そして二人を祝福してくれ」という。いいのかなあと思いながら、参列者の一人に。荘厳なパイプオルガンの音色、澄み切ったトランペットアンサンブルに熱い感動がこみ上げる。無意識のうちに十字を切る。
 仏教徒のプライドも何もない行動を、ほんの少し反省して静かに退場。

2009年8月8日土曜日

ジュンのバーを探して…ロシア④

 モスクワ市内。貧乏旅行なのでホテルや食事のグレードを落としたいが、インツーリスト(国営旅行社)が全て手配済み。もっともそうでないと入国もできない。

 赤の広場は石畳。中世にはロシア共和国の皇帝や大司教たちの行列が行き交い、クレムリンを攻撃するタタール・ポーランド・フランス軍との激戦があり、農奴戦争指導者ラージンが処刑された場所。そんな歴史上の舞台に自分がいる。何となく息苦しい…。少しでも出費を抑えようと、ホテルを出て自由市場で食料品を買うことに。ところが結構高い。しかたなくレストランに入る。持ち歩いていたウォークマンをテーブルの上に置いてボルシチを食べた。食事中、ボーイが来て、「そのウォークマン売ってくれないか」と囁く。「ニエット(いやだ)」。そういえば、シベリア鉄道の中でも、金の指輪と交換してくれといわれたっけ。

 「青年は荒野をめざす」で、ジュンがトランペットを吹いていた様なアングラなジャズバーを探し、真っ暗な夜の街を歩く。でも見つけることができない。まあ、いいか。さらばモスクワ愚連隊。明日はシェメレチュボ2空港からウィーンへ飛ぶ(ロシア編終了。ヨーロッパ編はまたいつか…)。

国のために何が…ロシア③

 ~20歳のジュンは、ジャズトランペッターを夢見てナホトカへ向かう船に乗った。モスクワ、ヘルシンキ、パリ、マドリッド…。温かな家庭、安定した仕事…、そんなものの一切に背中を向けて、自分を賭ける生き方、荒野をめざしてこそ青春なんだ~。五木寛之さんの「青年は荒野をめざす」が、今回の墓参一人旅のモチーフになっている。

 日本を出国してから9日目かけてモスクワに到着。その間、シベリア鉄道で移動中、ロシア語を教えてくれたのは小児科医のアレックスだった。シャーシキ(ロシアンチェス)をしながら彼が聞く。「国のためにお前は何ができるんだ」。答えられない。「自分は郷土の役場で働いている。でもそれは国家のためというわけじゃない…」。アレックス、「だから日本はダメなんだ」。

 言葉が重かった。この旅が終われば、自分は何かを始めなければいけないと思った(ロシア④に続く)。

2009年8月7日金曜日

ウスリースクで合掌…ロシア②

 シベリア鉄道、世界最長の鉄道路線。ウラジオストックからモスクワまで9297㎞。タイガを抜け、ウラル山脈を越え、ロシア平原を突き進む。列車ロシア号はモスクワ到着まで6泊7日の旅。1車輌にコンパートメントが8室、1部屋は2段ベットで4人用。これが25車輌ぐらい連結し、そのうち食堂車は4輌。3日も一緒に乗っていると、自然に会話や遊びが生まれる。日本人も数名乗っていたが、ほとんどはイルクーツクで降りた。

 ある朝方、ガタンという揺れに何かを感じ飛び起きる。ウスリースク駅だ。昔、祖父が暮らしたウオロシロフ収容所のあった町。あわてて枕にしていたザックを探り、日本から持ち出したタバコと日本酒を抱えて車外へ。駅からは出られないので、ホームのずっと端のベンチ横に供え合掌。「ババちゃんと一緒に来れなくてゴメン。爺ちゃん、みんな元気にしているよ」。10分ぐらいの停車時間はあっという間に過ぎて、また走り出すロシア号。

 少し沈み加減だったのか、ベットでゴロゴロしていると、隣のコンパートメントから可愛いお客様の訪問を受ける。マリーナ、アクサーナ、ターニャ…、みんな美人に育て!(ロシア③に続く)。

23年前の夏…ロシア①

 爺ちゃんが眠るシベリアの大地。ババちゃんと一度は約束して、結局ババちゃんは体調不良で行けなかったロシア墓参。午前の戦没者追悼式で、この春に逝ったババちゃんを思い出し、ロシア墓参、そしてヨーロッパを歩いた記憶をたぐり、ブログで書き残します。

 1986年8月24日、大曲駅から急行津軽に乗車。墓参の一人旅が始まった。五木寛之さんの「青年は荒野をめざす」に影響を受け、そのままの行程(横浜大桟橋から船でナホトカへ、そしてシベリア鉄道でモスクワまで)を進むことに。目的地はシベリア鉄道の駅もある町ウスリースク。仲間たちが見送りに来てくれた。翌晩、黒田武一郎さんと東海林洋さんが都内で送別会を開いてくれた。「日本円を全部使い切ろ」との元上司命令に忠実に従う。8月26日早朝、東海林さんのアパートを出て横浜へ。横浜港では1時間で税関と出国審査が済み、客船ジェルジンスキー号に乗船。出航午前11時。船内の客室は1等から6等までグレードがあり、自分は一番安い(船底)の6等に。部屋は最低だが、さすが共産国の船、レストランもプールもバーも、共用スペースは自由に使える。8月27日、デッキに出ると陸地が見える。岩手県の宮古沖を通過中とのこと。船の旅を満喫。大学生のキザロフ、アリョーシャ、日本人の富谷さんと記念撮影。8月28日午後4時、ナホトカ港内に入る。幾重にも重なる山々、波一つない水面、静かで神秘的。これから在来線でハバロフスクまで行って、そこからシベリア鉄道に乗り込むんだ(ロシア②に続く)。