2009年8月27日木曜日

パリの夜…ヨーロッパ⑦

 日本料理のヤマニ。ここに勤める板前さんの吉野さんと宮路さんは友人で、ちょくちょく連れ立って遊びに出かける関係なんだとか。吉野さんは国鉄マンを退職し、料理界に飛込んだ変わり者で好人物。ちなみに宮路さんは、ホテル・ニッコー・ド・パリの中のブランド化粧品店で働いていた。

 さて、久しぶりに日本酒とお刺身でいっぱい。これからのことを宮路さんと相談。「取り合えずアパートを探しましょうか。何日ぐらいパリには居るの?」。「いや、一度パリを出てベルギーやドイツも回りたいと思っていて」。「だったら、そっちから帰ってきた夜にでも、またここで落ち合いましょう。それまで適当に当たっておくわ」。「ありがとう」…。 店を閉めた深夜、吉野さんの愛車パブリカで、夜のパリをドライブ。「ちょっとドキドキする店に寄るよ」と吉野さん。人気のない小路をもの凄いスピードで走り抜ける。古い倉庫が立ち並ぶ、いかにも危険な場所。「ここが地下クラブ・デジャ・ムニエルさ」。

※写真はイメージ。こんなに健康的なお店ではなかった。カメラ持ち込み禁止ということで、あとはご想像にオ・マ・カ・セ。

2009年8月23日日曜日

元気100倍の電話…ヨーロッパ⑥

 爆弾テロの影に、生まれて始めて命の危険を感じる。しかも遠い異国の地で。テロの犯人グループはアラブ系過激派だとテレビで言っている。人が集まる駅や空港、デパートなどで警戒態勢が強まる。ミッテラン政権の一番の失策は、「雇用パス」の乱発らしい。外国から何万という異人種が入国し、宗教やら何やらでもめ事が絶えないんだそうだ。逆に好評なパスもある。子どもを3人以上産んだ夫婦には「黄門パス」が発行されている。買い物だったり、バスやメトロ(地下鉄)に列外から割り込んで入ってもいいという通行手形。町中で割り込み合戦が見られたのは、マナーの問題じゃなかったんだ…。

 ホテルにこもり、テロが落ち着くまで出歩かないようにしようと決めた矢先、宮路順子さんから電話が入る。なぜか懐かしい。まだ会ってもいない人と、久々の日本語の会話で元気100倍。宮路さんがいう。「ホテルから出てきませんか。近くの日本料理ヤマニでお遭いましょう」。

2009年8月19日水曜日

パリ警視庁爆破…ヨーロッパ⑤

 9月14日、フランス、パリ市第5区のカルチェ・ラタンに安いホテルを見つけ、ここをベースに2日間を過ごす。5区・6区はソルボンヌ大学などの学生街で、比較的暮らしやすいといわれるエリア。ノートルダム寺院やルーブル美術館のあるシテ島(セーヌ川の中洲にある島)にも近い。シベリア鉄道で預かった宮路順子さんへの手紙を届けるため、アドレスを頼りに3時間も訪ね歩く。分らない。ところが諦めてホテルに戻る途中、偶然に目的のアパートを発見。残念なことに本人は不在だったので、自分が滞在するホテルの電話番号をメモし、たまたま通りかかった住人に託して帰る。

 実はその間に大変な事件が起こっていた。さっき立ち寄ってきたノートルダム寺院の隣、パリ警視庁本部で爆弾テロがあったとのこと。わずか20分程度の差で爆風から逃れることができたことになる。ホテルに帰り、ニュースを見よう(見てもアナウンサーの言葉は分らないけど…)。

※写真は凱旋門の下にあるナポレオン記念碑。凱旋門はナポレオンの命令で建てられたが、彼はここを遺体で通った。

2009年8月15日土曜日

ガウディの街…ヨーロッパ④

 9月12日。スペインはバルセロナ。目的の地はサグラダ・ファミリア(聖家族教会)。地下鉄を乗り継ぎ、サグラダ・ファミリア駅で下車。どっちに向かえばいいんだろう。ウロウロしていると駅の後に塔が見えた。足早に教会を目指す。少しづつ視界に全容が入って、それと同時に体の震えも大きくなって…。言葉にできない感動とはこんなことか。人間には凡人と天才がいることを改めて感じた。

 アントニオ・ガウディ。1852年に生まれた偉大な建築家。その建造物は生物的で、曲線と彫刻を多用したデザインは多くの建築家や芸術家に影響を与えた。聖家族教会はガウディの代表的な建造物だが、100年前から造り続け、完成までにはあと200年かかるらしい。日本人が石工をしていると聞いてきたが、探しても見つからない。話しがしたかった。

 スペインではグラナダやセビリアにも足を伸ばしたいと思っていた。でも、それができない。実はシベリア鉄道で一緒だった麻野さんから、パリにいる友人、宮路順子さんへの手紙を預かっていた。この時期、パリ市民の多くはバケーションに出かける。麻野さんは貧乏一人旅の自分のために、バケーションで空室になるアパート探し(空室にしておくのがもったいなくて、必要がある旅行者などに低額で又貸しするらしい)を、宮路さんにお願いした手紙だ。これが叶えば、パリでの滞在費を大幅に切りつめることができる。しかし宮路さんも近日中にスイスに行くことになっているとか。急がないと手紙を渡せなくなってしまう。

ローマの休日…ヨーロッパ③

 9月9日。ローマ、スペイン広場(写真)にて。ドイツ語、英語、スペイン語などなど、いろんな国の言葉が聞こえて楽しい。バックパッカーのボヘミアンで大賑わい。ローマの休日…。オードリー・ヘプバーンが演じたアン王女と、グレゴリー・ペックが演じた新聞記者がデートをした場所。近所にあるはずの真実の口が見つからない。それにしても日本人が多い。特にトレビの泉は日本人だらけ。

 さて、そのトレビの泉。日本のガイドブックには正しいコインの投げ方というのが書いてある。1枚投げると「またイタリアに来られますように」、2枚では「好きな人と一緒になれますように」、3枚では「後腐れなく別れられますように」…。しかしこれは間違い(イタリア人から聞いた)なんだそうだ。1枚は同じ、2枚は「素敵な人が現れますように」、3枚が「一緒の人と結婚できますように」が常識だとか。だからイタリア人はみんないっている。「日本人はみんな2枚投げていく。カップルでここまでやってきて。なんて強欲なんだろう」。

 この後、トーマス・クックの時刻表を読み違えナポリへ。真っ直ぐ南フランスを目指すはずが真逆に進行。列車の中で気がついたが「ナポリを見てから死ねの諺もあるぞ」と車掌さんにいわれ、まあ、いっかと納得。地中海沿岸を走り、フランスはマルセイユで、バケツいっぱいの生ガキを食べてベットに入る。

2009年8月14日金曜日

オリーブ炒めご飯…ヨーロッパ②


オーストリアを出てイタリアに入る。ミラノからベニスに移動し、ここで安宿を探すことにした。何軒か歩くが安くない。相部屋になっても良いという条件で交渉成立。その後、いつも通り近所の散策に出かける。定番のサンマルコ広場、運河、そしてバーカロ(ワインバー)などなど。それにしても路地ばかり。
神父様らしき人に帰り道を尋ねる。「なに?お若いの、どこから来なすった?なんと日本?長崎か広島か?」と、逆に質問攻めに合う。歴史感(日独伊3国同盟じゃ古過ぎか)からの質問か、それとも宗教者としての戦争感からか…。「私は明日からバチカーノにいるから、必ず尋ねてくるのじゃぞ」とご案内までいただく。きっと偉い人なんだろう。
話し疲れ、歩き疲れ、ホテル近くのスーパーで夕食を買い込むことに。お皿に盛りつけされたご飯を見つけ、「やった、久しぶりの米だ」と大喜び。白ワインも買い込んでホテルへ。自分以外にこの部屋に泊まる客人はいないようで、ゆっくりと晩酌。シメシメ…。ところがこのご飯がマズイ。オリーブ油で炒めたご飯だ。ワインでやっと流し込む。ホテルの窓から運河を眺め、「あ~あ、海苔の佃煮のせてホッカホカの白いご飯が喰いたい」と独り言。
ベニスは沈みながら、そして朽ちながら生きる街、だからこそ美しい…。

ウィーンで結婚式…ヨーロッパ①

 ババちゃんのロシア墓参で日本を出た後、ついでに世界の今を知りたいと思い、ヨーロッパを巡ることに。できるだけ多くの国を訪ね、その国民と話しをしよう。

 1986年9月6日、ウィーン国際空港。モスクワ時間から2時間時計を戻す。バスターミナルに出て、ウエストバーンホフ(ウィーン西駅)行きのバスに乗車。世界中の観光客がいる。さすがは世界の観光立国!。市内はリンク(環状道路)で、いくら迷っても歩き続けると元の場所に戻って来られる。シュテファン大寺院やオペラ座、路上パフォーマンスは見ていて飽きることがない。

 小さな(他のと比べると)教会からチェンバロの音が漏れてくる。何だろう。石段を登ると中では結婚式が…。最後列にいたスーツ姿の男性が手招きして「入れ、そして二人を祝福してくれ」という。いいのかなあと思いながら、参列者の一人に。荘厳なパイプオルガンの音色、澄み切ったトランペットアンサンブルに熱い感動がこみ上げる。無意識のうちに十字を切る。
 仏教徒のプライドも何もない行動を、ほんの少し反省して静かに退場。

2009年8月8日土曜日

ジュンのバーを探して…ロシア④

 モスクワ市内。貧乏旅行なのでホテルや食事のグレードを落としたいが、インツーリスト(国営旅行社)が全て手配済み。もっともそうでないと入国もできない。

 赤の広場は石畳。中世にはロシア共和国の皇帝や大司教たちの行列が行き交い、クレムリンを攻撃するタタール・ポーランド・フランス軍との激戦があり、農奴戦争指導者ラージンが処刑された場所。そんな歴史上の舞台に自分がいる。何となく息苦しい…。少しでも出費を抑えようと、ホテルを出て自由市場で食料品を買うことに。ところが結構高い。しかたなくレストランに入る。持ち歩いていたウォークマンをテーブルの上に置いてボルシチを食べた。食事中、ボーイが来て、「そのウォークマン売ってくれないか」と囁く。「ニエット(いやだ)」。そういえば、シベリア鉄道の中でも、金の指輪と交換してくれといわれたっけ。

 「青年は荒野をめざす」で、ジュンがトランペットを吹いていた様なアングラなジャズバーを探し、真っ暗な夜の街を歩く。でも見つけることができない。まあ、いいか。さらばモスクワ愚連隊。明日はシェメレチュボ2空港からウィーンへ飛ぶ(ロシア編終了。ヨーロッパ編はまたいつか…)。

国のために何が…ロシア③

 ~20歳のジュンは、ジャズトランペッターを夢見てナホトカへ向かう船に乗った。モスクワ、ヘルシンキ、パリ、マドリッド…。温かな家庭、安定した仕事…、そんなものの一切に背中を向けて、自分を賭ける生き方、荒野をめざしてこそ青春なんだ~。五木寛之さんの「青年は荒野をめざす」が、今回の墓参一人旅のモチーフになっている。

 日本を出国してから9日目かけてモスクワに到着。その間、シベリア鉄道で移動中、ロシア語を教えてくれたのは小児科医のアレックスだった。シャーシキ(ロシアンチェス)をしながら彼が聞く。「国のためにお前は何ができるんだ」。答えられない。「自分は郷土の役場で働いている。でもそれは国家のためというわけじゃない…」。アレックス、「だから日本はダメなんだ」。

 言葉が重かった。この旅が終われば、自分は何かを始めなければいけないと思った(ロシア④に続く)。

2009年8月7日金曜日

ウスリースクで合掌…ロシア②

 シベリア鉄道、世界最長の鉄道路線。ウラジオストックからモスクワまで9297㎞。タイガを抜け、ウラル山脈を越え、ロシア平原を突き進む。列車ロシア号はモスクワ到着まで6泊7日の旅。1車輌にコンパートメントが8室、1部屋は2段ベットで4人用。これが25車輌ぐらい連結し、そのうち食堂車は4輌。3日も一緒に乗っていると、自然に会話や遊びが生まれる。日本人も数名乗っていたが、ほとんどはイルクーツクで降りた。

 ある朝方、ガタンという揺れに何かを感じ飛び起きる。ウスリースク駅だ。昔、祖父が暮らしたウオロシロフ収容所のあった町。あわてて枕にしていたザックを探り、日本から持ち出したタバコと日本酒を抱えて車外へ。駅からは出られないので、ホームのずっと端のベンチ横に供え合掌。「ババちゃんと一緒に来れなくてゴメン。爺ちゃん、みんな元気にしているよ」。10分ぐらいの停車時間はあっという間に過ぎて、また走り出すロシア号。

 少し沈み加減だったのか、ベットでゴロゴロしていると、隣のコンパートメントから可愛いお客様の訪問を受ける。マリーナ、アクサーナ、ターニャ…、みんな美人に育て!(ロシア③に続く)。

23年前の夏…ロシア①

 爺ちゃんが眠るシベリアの大地。ババちゃんと一度は約束して、結局ババちゃんは体調不良で行けなかったロシア墓参。午前の戦没者追悼式で、この春に逝ったババちゃんを思い出し、ロシア墓参、そしてヨーロッパを歩いた記憶をたぐり、ブログで書き残します。

 1986年8月24日、大曲駅から急行津軽に乗車。墓参の一人旅が始まった。五木寛之さんの「青年は荒野をめざす」に影響を受け、そのままの行程(横浜大桟橋から船でナホトカへ、そしてシベリア鉄道でモスクワまで)を進むことに。目的地はシベリア鉄道の駅もある町ウスリースク。仲間たちが見送りに来てくれた。翌晩、黒田武一郎さんと東海林洋さんが都内で送別会を開いてくれた。「日本円を全部使い切ろ」との元上司命令に忠実に従う。8月26日早朝、東海林さんのアパートを出て横浜へ。横浜港では1時間で税関と出国審査が済み、客船ジェルジンスキー号に乗船。出航午前11時。船内の客室は1等から6等までグレードがあり、自分は一番安い(船底)の6等に。部屋は最低だが、さすが共産国の船、レストランもプールもバーも、共用スペースは自由に使える。8月27日、デッキに出ると陸地が見える。岩手県の宮古沖を通過中とのこと。船の旅を満喫。大学生のキザロフ、アリョーシャ、日本人の富谷さんと記念撮影。8月28日午後4時、ナホトカ港内に入る。幾重にも重なる山々、波一つない水面、静かで神秘的。これから在来線でハバロフスクまで行って、そこからシベリア鉄道に乗り込むんだ(ロシア②に続く)。