2024年9月7日土曜日

あきたこまち40歳


 AKT秋田テレビの土曜LIVE!あきた。特集の1本はあきたこまち40周年です。あきたこまちは奇跡が重なり秋田で産声を上げました。始まりは昭和9年の東北大冷害。国は耐寒性の高い…。


 私はコメントで、「あきたこまちは奇跡のお米です。様々なことが重なり合って、世界で栽培される超人気の良食味米ができたんです」と話しました。と言うのも…、その大冷害の後で国は、新品種の育成を狙って東北各県に1箇所ずつ試験地を開設しました。秋田県には例外的に2箇所(現大曲市と現仙北市)設置された記録があります。しかし昭和22年に同事業は廃止。他県は県が試験地を引き継ぎますが、秋田県だけは廃止のまま受け入れます。当時の秋田県は、水稲の育種に関して余り熱心ではなかったようです。しかし昭和30年代後半、米の消費量が頭打ちになり、国は銘柄米制度をスタートし食味米時代となります。この転換期に県農協中央会や県が連携し、やっと昭和50年に秋田県農業試験場内の組織として水稲品種課が整備されます。職員は2人、齋藤課長と畠山研究員です。この2人が北陸や東北地域の育種の現状調査を行い、昭和51年、たまたま福井県の農業試験場に赴いていた畠山研究員が、実験中の7株の中の1株を秋田に持って帰ったことから、あきたこまち物語が始まるのです。


 この1株はコシヒカリをお母さんに、奥羽292をお父さんに持つF1でした。モミの数は384粒で、秋田県農業試験場ではこの1粒1粒を発芽させ、さらに交配を行い、出穂が早く倒伏しない、いもち病などの耐病性に優れ、何より美味しいお米の系統選抜を繰り返しました。最後に残った5504と5505の比較検討で5505が優れていると判断し、このお米に秋田31号と言う仮の名前をつけて…、これが後のあきたこまちです。ネーミング募集も行い、最後あきたこまちの名称を選んだ人は、当時の秋田県知事・佐々木喜久治さんでした。以上、ザッと書き出しましたが、どの場面の1つ欠けても、今日のあきたこまちは誕生しなかったと思います。
※左から菅原咲子アナ、私と重久愛コメンテーター


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